Adobe Illustrator、Photoshop日本語版を創った男。日本のデジタルデザインの功労者・樺島正博プロフィールインタビュー:樺島正博×覚田義明

Adobe Illustrator、Photoshop日本語版を創った男。日本のデジタルデザインの功労者・樺島正博プロフィールインタビュー:樺島正博×覚田義明

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Adobe Illustrator、Photoshop日本語版を創った男。日本のデジタルデザインの功労者・樺島正博プロフィールインタビュー:樺島正博×覚田義明
樺島正博・覚田義明個・正面写真 DSC4566 - バージョン 2

【まとめ】このプロフィールのインタビューの内容をまとめました。!
システムソフト社の設立秘話 / 遊撃王(エアーコンバット)の開発・販売  / Shade (シェード)の開発・販売 / アップルコンピュターへのR&Dの提供 / 日本電気8800用の漢字ベーシックを開発・販売 / 1984年にAppleMacintosh発表 / PostScript(ポストスクリプト) / ShadeもAdobe Illustrator同じベジェー曲線を使ったモデリングだ / Adobeのジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキーにプレゼン / Adobe Illustratorの総販売元の承諾を獲る / Adobe Illustrator 日本語版の開発 / Adobe Illustrator 日本語版・Photoshop 日本語版の開発会社でもあり、販売元会社であり、販売会社でもある / システムソフトアメリカ設立/ ローカライズした商品はAdobe Illustrator、Adobe Photoshop、QuarkXPress、MacroMind Director、Claris Works、Claris Drow、FileMaker、Premiere、Symantec Norton AntiVirus、Symantec Norton Doctor / DTP(Desktop publishing) / BNN 雑誌マックライフの発行 / DTPショップ パークウェイ / 朝日新聞、読売新聞の英語版のDTP化 / システムソフトで働いていた方へ一言!

(覚田義明)
ペンシルの覚田です。

(樺島正博)
元システムソフトの樺島です。

(覚田義明)
私がシステムソフト・グループに入って
600人くらいの樺島さんの会社に入社して
一番下っ端から社長秘書までならせていただきました。
入社してスグに社内でワースト2のレッテルを貼られた。
最終的に社長秘書になって、
社長の側で仕事をさせて頂いて、
社長のやってきたことは私が一番見てきている。
と思います。

社長がやってきたことは、
日本のデジタルデザインの文化をつくってきた。

日本のコンピュータ業界を最初から最後までやってきた。
今日は樺島さんと昔話をしたいと思っている。
知らない方もいると思うので、
プロフィールと全体的な話していきたいと思います。

樺島さんはどういう風にアップルに出会ったのか?

(樺島正博)
単純にデザインが素晴らしいし、
コンピュータのコンセプトの捉え方、コンピュータの考え方は
当時強かったNECやNSDOS?とは全く違ったから興味を持った。

(覚田義明)
1984年にマッキントッシュを広く日本で広がった。
日本でマッキントッシュと出会う前にShade (シェード)
を作っていた?

(樺島正博)
いえ、シェードではなく、ペイントソフトウエア
PC9810のために開発をしていたけど、
色やメモリ空間の制限があって、開発がなかなか進まなかった。

(覚田義明)
ペイントソフトを作ろうとしていた?

(樺島正博)
そのときに、日本でMac2が発表になって
256色から2万5000色
メモリエリアも十数倍拡大して、
これだったらアプリケーションを完成させることができると
我々がソフトウエアの開発会社なので
ソフトウエアを出したいと思ったら、
当時はMacを使う以外なかった。
それで興味をもった。

(覚田義明)
元々はNECとか富士通とかで
動くソフトウエアを開発していた。
最初は何を発売されましたか?

(樺島正博)
PC8001のためのOSは
非常に貧弱で出来ないことだらけだった。
それを使いやすくするための
ユーティリティーソフトウエアの開発から始まった。

(覚田義明)
そういうものを発売しながら、
実はデザインが好きだということで
シェードの開発をしようと考えていた訳ですよね?
どんな風にいつ頃から開発を始めた?

(樺島正博)
1960年を過ぎて、
システムソフトの前進の会社であるシステムソフトだった。
コンピュータグラフィックには興味があったけど、
当時の芸工大(九州大学芸術工学部)で天才的な学生がいて、
持ち込み企画だった。
本格的な3DCGのソフトウエアで
これをなんとか商品にしたいというところから開発が始まった。

(樺島正博)
最初はNECで使うものを発売した。
当時一番売れていたのが9801

(覚田義明)
いろんな壁に打ち当たった。

(樺島正博)
メモリ空間の小ささや色の表現力とか予算とか

(覚田義明)
ビジネスとしてはゲームソフトの大戦略とかを発売されて、
ビジネス的には成功されていた訳ですよね。

その中で、いろんなゲームとかユーティリティーソフトを販売されていて
もう片方はデザインが好きだということでシェードをつくろうとしていた
シェードの販売のために何かをしていた?

(樺島正博)
商品化するのが一番の目的で、これがどれだけ売れるとか、
どれだけ儲かるとか考えていなかった
誰でも気軽に3DCGのデザインが作れるソフトウエアをつくるのが夢だった

(覚田義明)
なかなか商品が出来ないシェードがあって、
3Dの技術を使ってソフトウエアを創ろうとされていましたよね

(樺島正博)
シェードの開発には5年近い月日がかかって、
シェードの技術を使って何か商品化しようと考えがあった。

そういった意味では、ゲームソフトは比較的簡単に出来た。
立体表現のゲームができないか?
ということで遊撃王(エアーコンバットシリーズ)を作った
シェードの開発を始めて3年くらいで出した。
1983年くらいの頃だったと思う

立体的にみえる飛行機の打ち合い

(覚田義明)
1984年にAppleのMacintosh(マッキントッシュ)が出た
そのときにどんな衝撃を受けましたか?

(樺島正博)
オリジナルのマッキントッシュから
マッキントッシュからMac2になった時
色表現やメモリ空間の広はすごかった。
プログラムをつくるときの計算スピードは
演算用のプロセッサを付け足して
その中で管理するのが容易にできた。
3DCGのソフトを作るコンピュータには最適だと思った。

(覚田義明)
それから、マッキントッシュのソフトウエアを関わっていくようになるけど、
アップルとR&Dとかいろいろされていたと思うけど、
どんなことをされていたのですか?

(樺島正博)
当時のアップルは、日本語は出来る状態にはあったけど、
フォントの表現力の弱さ、日本語の漢字変換のひどさなど
その辺の日本語変換が幼稚なレベルだった。
ちゃんとした日本語化のレベルにするお手伝いをしたいという思いがあった。
それでアップルとコンタクトを続けた。

(覚田義明)
それからアップルから仕事をもらって、
日本語化をどういう風にしたらいいか?とか
フォントをどうすればいいか?というというような企画書を出した?

樺島正博・覚田義明個・左斜め写真 _DSC4575

(樺島正博)
当時の日本電気の8800、9801、9800も
日本語が完全ではなかった。
システムソフトが漢字ベーシックを8800用に
発売した経緯がある
これはシステムソフト独自の技術ではなくて、
仲良くしていた会社と開発した日本語に付加するOSだった。
そういった経験をもっていたので、アップルジャパンに対しては
いくつか提案をしたことがある

(覚田義明)
僕もMacIIを買って映画をつくろうとしたけど、
日本語ができなくて、スイートジャムというものを入れると日本語に出来る
日本語化されるというもの。それから漢字トークというものを入れると日本語の
漢字変換がされるというものを入れた。
その後にMacを買うと日本語変換ができていた。
そういうことを手伝ってやられたということですよね。

その中でアップルに企画書を色々出していたときに、
Illustratorに目が止まる。それはどういった経緯?

(樺島正博)
当時アップルのイベントで、サンフランシスコ
で開催されるMacワールドエキスポという
大きなコンベンションがあった。
それで1986年サンフランシスコのMacワールドのイベントで
AdobeからIllustratorが発表された。

(覚田義明)
AdobeのIllustratorは確か元々はフォントを作成するために
社内で使っていたPostScript(ポストスクリプト)の技術の
会社でポストスクリプトを広めたいと営業をしていて、
デモンストレーションとして使ったり
作ったりしていたら、それ自体が販売されたらしいけど・・
Adobeは向こうからアプローチされてきたの?

(樺島正博)
こちらからアプローチした。
ポストスクリプトの曲線はベジェー曲線、
私たちの開発していたシェードも同じベジェー曲線を使ったモデリングだから
すごい共通性を感じたのと、ベジェー曲線の比較的簡単だけど
素晴らしい結果が出るから、
それを使った技術ということで注目した

(覚田義明)
それからシリコンバレーのAdobeに行って、
日本で売りたいと言って簡単にOKもらえたのですか?

(樺島正博)
簡単にはOKもらえなかった。
何度かプレゼンをした。
当時のチャールズ・ゲシキー社長とジョン・ワーノックにプレゼンし
開発者のOKももらった。

(覚田義明)
通常だと英語版の総販売元とか、総販売代理店などの
元請けみたいな感じで売るけど、
そのままを売りたい訳ではなくて、
日本語版を売りたい。
総代理店として売るのではなくて、日本語版を作らなければいけない
というのがまずあったと思います。
普通はAdobeに頼んでつくってもらうけど、
実際は、システムソフトで一緒に開発する
というわけですよね。どんな風にしたのですか?

(樺島正博)
日本のマーケット自体が小さかったから、
Adobe自身も資金が豊富ではなかったので
Adobeで開発するのも難しいし、日本のこともよくわからないし、
だから、システムソフトからシステムエンジニアを
Adobe本社に送り込みましょうということで、そんな開発スタイルを作った。

(覚田義明)
そのときには既にシステムソフトアメリカがあった?

(樺島正博)
そのときにはまだなかった。

(覚田義明)
福岡にシステムソフトの会社があって、
Adobe本社にスタッフを3名も送り込んで
Adobeの中で日本語版を開発するシステムソフトの
スタッフがいてIllustrator日本語を作る。
そして、パッケージも向こうのデザインを使って、
日本でデザインをし直して日本語版と入れて日本で発売する。
開発会社でもあり、販売元会社であり、販売会社でもある。
不思議な形ですね。

(樺島正博)
当時はそうするしかなかった。
覚田さんがおっしゃった、システムソフトアメリカの話がでたけど、
Adobe、クラリス、クオーク、マクロマインド、にどんどん人材を送り込んだ
アメリカに送り込んだ人材が増えたので、
アメリカ法人システムソフトアメリカを作った。

(覚田義明)
今でいう、ローカライズという手法。
アメリカのアプリケーションを日本に持って来て
今だと2バイトコードで作られているから、
わりと簡単に日本語化ができる。

当時は1バイトコードで作られたものを2バイトにすることも
日本語化にすることも難しいし、ローカライズすることも難しいので、
その会社にシステムソフトの社員を送り込んで
その中で開発をして、ローカライズ、日本への総販売元をした。
商品としては、
Adobe Illustrator、Adobe Photoshop、QuarkXPress、
MacroMind Director、Claris Works、Claris Drow、
FileMaker、Premiere、Symantec Norton AntiVirus、
Symantec Norton Doctor

(樺島正博)
今出て来た会社の中には、昔送り込んだスタッフがまだ残っている

(覚田義明)
システムソフトは福岡で獲得した人材をシリコンバレーの各社に
派遣してソフトを作り上げた。
ソフトを開発していた。ソフトの開発会社でもある。

そして、マッキントッシュのDTP、デジタルグラフィックを
どんどん広めていこうということで、当時はソフトウエアがあったけど、
出力もできないといけない、スキャニングもできないといけないということで
スキャニングして編集して出力するということをちゃんと提案したいということで
DTPのアンテナショップを作られました。
いつ頃からつくられました?

DTP(Desktop publishing、デスクトップパブリッシング)

(樺島正博)
パークウェイという関連会社
当時はインフラが高額なものだったから
一般が使うことはなかった。
プリンターも高額だった。
日本のDTP業界が変わるきっかけ、
朝日新聞、読売新聞の英語版のDTP化が大きなきっかけだった。

(覚田義明)
当時、僕はシステムソフトに入社させて頂いて、
DTPとかハイグレートデジタルグラフィックの
今でいうコンサルタント、
当時はソリューション販売をさせていただいていて
日本のほとんどの印刷会社、新聞社、電通の研究所などの
いろんなところに回ってDTP化していた。

今は日本中の誰でもがIllustratorやPhotoshopは使っている。
樺島さんは、その生みの親でもある。

書籍もやっていた。
BNNからMacライフを出されていた。

あのときに、樺島さんの会社に入りたいと思った一番の理由は、
その統合力、ソフトウエアを開発して販売している
その情報を、出版会社を作って、書籍で情報を伝えている
そして、専用のショップでハードを販売している。
また、販売するだけではなくてソリューション提供し
スキャニングソフトを開発したり、
スキャニングとつなぐプラグインを開発していた
トータルに全部やっていたというのが僕としては衝撃だった。

(樺島正博)
会社の規模からすればやり過ぎ。
資金的には相当苦しかった。

その事があったから日本のデジタルデザイン、コンピューター業界、
マッキントッシュが広がったと思う。
今、デザイナーたちは普通に使っているIllustrator、Photoshopの
生みの親の樺島さんの功績を元秘書として樺島さんがやってきた事を、
歴史を伝えていきたいと思って動画を撮影して皆さんにお伝えしたいと思っている。

(樺島正博)
今我々が感じている環境が、当時にあれば、
もっといいものができたでしょうね。

(覚田義明)
当時は何もなかった。
マッキントッシュの日本語版の本も1冊しかなかった。
プリンターもMacライターとか限られたものしかなかった
手探りで全部やっていた。

(樺島正博)
アップルだけではなく、アメリカのIBMもそうかもしれないけど、
最初のオリジナルのマッキントッシュから、
Mac2への流れ、今のiPhoneまでの流れ、
ロードマップはかなり早くから出来ていたと思う
それがすごいと思う

(覚田義明)
これから、樺島さんの歴史をひもとくように
順番に聞いていくと色んな流れがわかって面白いと思います。
樺島さんの会社で働いていた人たちは、
現在いろんなところの会社の社長をしていたり
いろんなところで活躍している
その人達にも今後インタビューしていきたいと思います。

皆さんへ一言、お願いします。

(樺島正博)
いろんなところで活躍されている方々
みなさんに迷惑をかけるような状態で終わったので
もし、またインタビューの時間があって
細かいところまで説明できる状況が生まれればいいなと思う

(覚田義明)
ありがとうございました。

 

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