鎌田社長への手紙 2000年4月

鎌田社長への手紙 2000年4月

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アントレという雑誌に載っていた。あるベンチャー企業の社長の記事に


感動し、その記事に書かれている彼の物語を真似して同じように書いて、


一方的に送った手紙が「鎌田社長への手紙」です。
その後、その鎌田社長から連絡があり食事に誘ってくれました。



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アントレを読んで、鎌田社長へ 200043


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鎌田社長



こんばんは覚田です。


アントレの記事読ませていただきました。


非常に素晴らしく感動しました。



どこか、私と似ているところもあり、とても嬉しいです。


そこで、この気持ちを込めて、鎌田社長に私のこと知って欲しいので、


アントレの記事をパロッて、私の記事を書いてみました。



少し長いですが、ぜひ、読んでみて下さい。



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私は、小学校3年のときに「学校の宿題はやらない」と幼心に誓いました。


それは、学校では、私の好奇心を満たすものは、ことごとく取り上げられ、


教師たちは、誰も私の疑問に、本当の意味で答えてくれなかったからです。



「どうして電線は3本あるの?」「なぜ星はきらきらと光るの?」、そん


な疑問に、「そんなことは知らなくてもいい」とか「そんなこと必要ない」


などという、心ない言葉に、私の旺盛だった好奇心は傷つきました。



家でひとりで百科事典を読みあさったり、空を見て星を観察したり、トー


スターを分解したりすることに夢中になっていました。


そして、貴重な時間を、くだらない学校の宿題なんかに費やすのはやめよ


うと決心したのです。



それ以来、学校では落ちこぼれと言われ、問題児として扱われました。



でも、逆に私は私自身の世界の中で、自分と向き合うことができ、


自分の好奇心を育てることができたのです。




そんな私も、数学の証明問題は大好きで、中学の時には大学の入試問題も


すらすら解けるほどでした。


でも、それは公式を覚えて、問題を解くのではなく、自分の中から公式を


導き出して問題を解く、そんな不思議な力をもっていたのです。



そんな私も、なんとか高校までは行き、高校卒業の時に、レポートを提出


しないと卒業させないと言われ、母親に泣いて頼まれて、しかたなく書い


たレポートで、なんとか高校も卒業しました。


結局まじめに勉強したのは、小学校3年までで、おかげで、私の漢字の能


力は、小学校3年生のままで止まっているのです。




中学生のころには、音楽が好きでレコードを毎月8枚ぐらい買っていました。


なるべくたくさんのレコードを聞きたかったので、安いレコード屋を探し


ているうちに、レコード5枚買うと1枚分おまけしてくれるレコード屋を


見つけました。


そして、友達からレコードの注文を集めて、みんなに1割引で売ってあげ


たり、さらに、友達とレコードの発売情報のちらしを作ったりして配って


いるうちに、となりの中学校からも注文が来るようになりました。


結局、毎月100枚から200枚ぐらい販売するようになっていきました。


そのおかげで、私はたくさんのレコードを手に入れることができたのです。



こんなふうに、子どもの頃から、知らず知らずのうちに、ビジネスのセン


スが養われていたのかもしれません。


型にはまった勉強よりも、そんなことの方に興味があったようです。




そして、高校を卒業すると、長男だった私は、実家の建設業を継ぐべきと


ころでしたが、思うところあって放浪の旅に出ました。


そして、行き着いたのは、信州の山奥で、そこは信州大学の山岳部のベー


スキャンプになっていました。


私は、しばらくの間、そこで料理やそうじをしながら、寝泊まりさせても


らっていました。ある日、「一緒に登ってみないか」と誘われて、登山を


しているうちに、3ヶ月後には、インストラクターができるほどになって


いました。



もともと、何でも徹底的にやらなければ気がすまないたちなので、標高


3000m級の穂高連邦も、普通の人が週に1回登るところを、3日に1


度登って、極めていったのです。




20歳になるころには、実家の家業を継がなくてはと思うようになり、中


学生の頃から、見よう見まねで手伝っていた父の仕事に、本格的に取り組


むようになりました。



当時、車のフロントガラスが強化ガラスだったのが、危ないということで、


合わせガラスが使われるようになっていました。


私は、これを防犯ガラスとして売ること思いつき、この販売をしていきま


した。警察の防犯課の人と協力することで、評判も上々で、かなりの利益


をあげることができました。



ちょうどその頃、映画好きだった私は、スターウオーズを見て凄く感動し、


自宅で毎日見たいと思い、徹底的にやる性格を発揮し、アメリカから機材


を取り寄せて、大画面とオーディオを駆使したドルビープロロジックの映


画館を家に作り上げました。



私は、その設備に大満足していましたが、ただひとつ、ちがう映画を見る


たびに、音声や音質など10個のスピーカーのバランス調整をしなくては


ならないことに不便を感じていました。


それで、私はオーディオ売り場に行き、「何か便利なコンピュータはない


かなぁ」とつぶやいていました。


すると、私の後ろにいた人が、「君、コンピュータを探してるの?」と声


を掛けてきたのです。その人は、音響機器の会社の技術開発部長で、私を


自宅に招いてくれて、画期的で感覚派のパソコンを見せてくれたのでした。



それが、アップル社のマッキントッシュ(マック)でした。私とコンピュ


ータとの出会いでもありました。



その日から、私は、マックに徹底的にのめり込んでいき、自宅で画像編集


や新聞などを編集するDTPシステムを作り上げたのです。1986年の


ことでした。


そのうちに、どこから聞きつけたのか、いろんなところから依頼が来て、


マッキントッシュを教えに行くことも、しばしばでした。




そうして、いよいよ父の後を継ぐときがきて、さんざん迷ったあげく、ア


メリカに渡り、10日間をかけて、スタンフォード大学やアップル本社、


バークレイ大学、そして、マックエキスポなど視察をしました。


そこで見たシステムは、世界の最先端技術で、これからコンピュータの最


新技術である画像処理やネットワーク、バブリシングが世界標準になって


いこうとしているシステムでした。しかも、それらはマックで実現されて


いたのです。


日本は、コンピューターでは10年は遅れていると確信しました。


そして、これなら、僕にもビジネスチャンスがあると思いました。



私は、父の後を継ぐことをやめて、コンピュータの道に進むことを決心し


ました。


その時、両親の嘆きは大変なものでしたが、私には「この道しかない」と


いう啓示にも似た確信がありました。



そうして、コンピュータの道に進もうと決めた私は、マック関連の会社に


就職したいと思い、業界をリードしている会社をいくつかピックアップし


ました。


「マック販売会社」「マックのソフト会社」それから「マック雑誌の編集


社」の3つでした。


それを、よくよく調べてみると、それらの3つの会社は、同じ社長が経営


しいて、マックを日本で広めるためにトータル的にビジネス行っているこ


とがわかりました。



その会社は「アドビのフォトショップ」「イラストレーター」、ショック


ウエーブの開発ソフトの「ディレクター」、3Dソフトの「シェード」


「アドビのアクロバット」などを開発していました。



今、インターネットやグラフィックを行っている人たちが、当たり前のよ


うに使っているこれらのソフトに、当時の15年も前から着目して、トー


タルビジネスを行っていた、凄い社長です。


今でも驚きですが、当時はもっと驚きました。



私は、驚くと同時に、どうしてもその社長の会社に入社したいと思うよう


になりました。


そして、まずは東京の雑誌社を受けましたが、落ちました。次に、大阪の


販売会社を受けましたが、これも落ちてしまいました。


最後の望みを掛けて、福岡が本社であるソフト会社に行き、たまたまそこ


にいた社長と会うことができました。



そのときの私は、長髪を後ろで束ね、ヒゲを生やし、登山靴というような


すごい格好で、「うさんくさい」という言葉がぴったりで、とても社長が


会ってくれるような出で立ちではありませんでした。


けれど、社長は、「君、おもしろいね」と言ってくれて、奇跡的に採用さ


れたのでした。



そんな風にして採用された私は、入社当初、社内中の人から反感をかって


いました。


けれど私は、社内の反発や反感を見返すように、毎日一生懸命働きました。


そして、与えられたチャンスや様々な機器を生かして、土日は研究と開発


に取り組み、平日は営業にとりくみ、毎日20時間ぐらい働きました。


「できるわけない」「前例がない」などの批判を受けましたが、そう言わ


れれば言われるほど、私は「絶対やってやる」という意欲にかられました。



そのおかげで、私の所属する部署の売り上げを、6倍に伸ばすなど、次々


と業績を上げていき、入社後半年たらずで、課長になり、30人の部下を


持つようになりました。



そして、独自のシステムとノウハウで、大手印刷会社やグラフィック会社


に、多数コンサルティングを行い、雑誌にも多く掲載されました。


最後には、尊敬する社長の秘書を務めるようにまで、なったのです。



そんなふうにがむしゃらにやってきて、ふと気づくと、1995年になっ


ていました。


そういえば1990年に、「2000年に学校を創る」という目標を立て


ていたことをすっかり忘れていること、そして、もう半分のところまで来


ていることにも、気づきました。



昔、落ちこぼれだった私も、チャンスを与えられ、色々な経験を積みなが


ら、「頑張れば成功できる」「周囲に認めてもらえる」ということを、身


をもって体験しました。


子どもの頃、教師たちに叱られながらも宿題を放棄し、自分の興味のある


ことを徹底的にやるという事が、今の私を作っているのだと思うのです。



世の中には私と同じように、学校の勉強は好きじゃないけど、何かがすご


く好きで、そのことなら集中して何時間でもできるという人たちがいると


思うのです。


そんな人たちのためにも、勉強したり、研究したり、色々な事を体験でき


たり、本当に自分の興味のあることを学べるような研究所や学校を創りた


いという夢を持っています。



私に与えていただいたチャンスや経験、社長への恩を、次世代へつなげて


いきたいと考えてのことです。



そして、その夢を本格的に実現するために、1995年に独立して、今の


会社「ペンシル」を作りました。




最初は、6畳一間から始めました。



当時のコンピュータ業界は、引き抜きや独立の嵐でした。


その時のお世話になった会社や社長への恩を忘れて、「顧客を盗む」「商


品や仕入れ先を持っていく」「人材を部署ごと引き連れていく」など、ひ


どいことが行われていました。


誰もが独立するときには、必ずこれらのどれかをしていました。



私が独立した当時、貯金が600円しかなかったのですが、お世話になっ


て恩義のある社長を裏切るようなことだけは、絶対にするまいと誓ってい


たので、商品も、サービスも、顧客リストも人材も持たずに辞め、まった


く新しい、そして苦しいスタートをしました。



会社を作ろうと思っていながら、お金がなくて作れずにいたときに、経理


のことを頼んでいたある会社の社長が、休眠会社を、なぜか私にくれたの


でした。


おかげで、晴れて、私は会社を持つことができたのです。




会社をスタートして間もない頃、私は会社のドメインを取ろうと思い、調


べてみました。そうすると、日本では当時20万円だったドメイン・サー


ビスが、アメリカでは20ドルで売られていることを知ったのです。


それで、私は、アメリカに申し込んで、コム・ドメインを取得しました。


そうすると、それを聞きつけた友達が、自分も欲しいと言ったので、


ドメインをとってあげました。



それで、私は「これはビジネスになる!」とひらめいたのです。


それから、アメリカの代理店に問い合わせて、交渉の末、日本での販売権


を得ることができました。


このコム・ドメインサービスをホームページ上で始めると、「ヤマハ」


「エプソン販売」「ニッカウヰスキー」などの大手からも申し込みが殺到


し、約500社に販売することができ、国内1位の販売本数を達成し、ペ


ンシルは軌道に乗ってきました。



こんなふうに私のビジネスは、「自分が不便だと思うことを解決する」と


ころからアイデアが浮かんできて、そして、「そんなの聞いたことがない」


「できるわけない」「うまくいくはずない」などという反対をされればさ


れるほど、「これはチャンスだ」「今やれば、日本初だ」と、「とにかく


やってみる」をモットーとしてやっているのです。



そして、私はベンチャー企業家「研究開発型企業」であり続けたいと思っ


ています。


そのためには「いつか儲かる」ビジネスだけでは、ダメだと思っています。


儲かることにみんなが気づいたときには、大資本が押し寄せてきて、私た


ちのようなベンチャー企業は、その資本力の下にふみつぶされてしまうの


です。いつか儲かるかもしれないそのビジネスも、「儲かるのは私たちで


はない」とうことになりかねないのです。


だから、「今、儲かること」も大切だと思うのです。


そして、「中期」「長期」で儲かるまったく別のビジネスも、必要で、こ


の3つの利益期間を意識したビジネスプランが大切だと思っています。


そして、画期的なアイデア、つまりオリジナリティあふれるサービスが、


ベンチャー企業には欠かせないのです。



また、ペンシルは「インターネット・コンサルティング会社」としてビジ


ネスを展開していますが、私のマーケティング・ノウハウは、決して学校


や書籍で勉強したものではありません。


経験やひらめきから、生まれてくるのです。


ですから、それを人にうまく説明することもできないし、自分でも、その


理由がわからないこともあります。



しかし、結果が物語っています。


私は、自分のマーケティング論に、ゆるぎない自信を持っています。


失敗を恐れず、小さな失敗をたくさん経験し、それをひとつずつ確実に解


決し、どんどんノウハウを蓄積し、大きなビジネスを成功させるのです。


ECとは技術ではなく、物を売るセンス、要は、商売人である人が勝つの


ではないかと考えています。




最近、よくベンチャー企業家たちが「上場するぞ」と言っているのを耳に


しますが、私は、全く興味がないのです。


彼らは、上場するためだけに起業したのではなかったはずです。


自分の生き甲斐や夢をかなえるために起業したはずなのに、それがいつの


まにか、コンセプトがずれてしまって、上場すること自体が、目標になっ


て、手段であった資金集めが、目的に変わってしまっているように思える


のです。



そういう人たちに「何のために上場するの?」と聞くと、決まって
「お金が儲かるのです。そうすれば、なんでもできるんです。」と答えます。


そんな答えを聞いて、なんか寂しくなってしまいます。


お金がないとやりたいことができない、自分の夢を達成するのに他人のお


金が要るのでは、なんだか夢がなくなっているように感じるのです。



私は、自分のやりたいことや夢のために、会社や仕事をやっていきたいと


思っています。また、その仕事自身が自分を「ドキドキ」「ワクワク」さ


せてくれなければいやなのです。



そして、「2000年に学校を創る」という目標をかなえるために、現在、


「ペンシルラボ」を計画中です。


ペンシルラボでは、ペンシルで得た利益を、機材やソフト、そして人に投


資して、将来の研究所の設備として充実させていっています。


そして、ビジネスを通してヒューマンネットワークを構築し、将来の夢の


パートナーを探し続けています。


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